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鍋島直茂

鍋島直茂は龍造寺氏に仕えた戦国武将で、後に肥前佐賀藩の藩祖と言われているが、正式には藩主にはなっていない。

鍋島直茂は龍造寺隆信の第一の直臣として活躍した。

エピソード

元亀元年、佐賀城は大友氏八万の大軍に攻められた。佐賀城には3000の兵力しかなかった。鍋島直茂はこの絶体絶命の窮地を脱するには、敵の大将・大友親貞の陣を夜襲するしかないと献策し、僅か17騎で城を抜け出します。
その後、次々に参じた兵を集め、3百余りの一団として、大友軍8万の本陣に斬り込んでいった。大友軍は3百余りの兵を大軍が押し寄せたものと錯覚して大混乱になる。
大友親貞は僅か3騎で逃走しますが、鍋島直茂は大友親貞を追いかけて討ち取る事に成功する。
その時、大友本陣にある大友氏の家紋(杏葉紋)を引きちぎり、戦勝の証として持ち帰った。以後、杏葉を自分の紋にした。


隆信とは義兄弟にあたり、そのため独断専行の多かった隆信を諫言することが多かったといわれる。はじめのうちは隆信と仲が良く、隆信と並んで「龍造寺の仁王門」とまで称されたが、晩年の隆信が酒色に溺れると次第に疎まれて遠ざけられたという。


沖田畷の戦いで、龍造寺隆信が討ち死にすると、隆信の子・政家が家督を継ぎ、隆信の仇・島津氏に従属する。これを不満とした鍋島直茂は、豊臣秀吉に味方して龍造寺氏の凋落を防ぐ。
秀吉は、凡庸な政家に隠居を命じ、政家の息子・高房が元服するまで直茂が龍造寺の領地を預かるように言い渡した。その後、直茂は龍造寺家臣を懐柔し、高房に自分の養女を妻に与えて高禄で養い、領地を返さなかったが秀吉や家康は、鍋島直茂のお家乗っ取り行為を黙認した。


侍女八人と侍・僧六人の密通が発覚し、14人全員が成敗された。すると夜ごと成敗された者の幽霊が、佐賀城内を徘徊するようになった。直茂は夫人から、頻繁に幽霊が出るので侍女たちが怖がって、夜は外出出来ないと聞かされた。
すると直茂は「さてさて嬉しき事かな。彼の者どもは首を斬ってもまだ足りない憎き者どもである。それが死んでも行くべき所に行かず、迷い巡って幽霊となり、苦しんで浮かばれもしないとは良い事だ。そうだ、長く幽霊のままで居るが良い。」と言った。すると幽霊は出なくなった。


直茂は、佐賀の地が他国から侵されるとすれば、龍造寺氏の時代のように北方からであろうと考え、佐賀城の北西の多布施に隠居し晩年を過ごし、この地に墓を造り、死んでからも佐賀を守った。


ある家臣が生活苦に陥り、米びつに一粒の米も無い状態になった。その家臣は藩に納める米を農民から奪って、死罪が決まった。すでに嫡男・勝茂の代になっていたが、直茂は勝茂に「彼は我らの為に数度一命を捨てて働き、血みどろになって肥前の国を守ってくれた。
我らが殿と言われて安穏に暮らせるのは彼のおかげだ。彼は最高の兵で数度の高名を挙げた。彼を米も無い状態にしてしまった自分こそが大罪人である。彼を殺して、我が何として生きて居れよう。」と言った。勝茂は父の嘆きを聞き、家臣を許した。


鍋島直茂は「自分が死んだ後、万一幕府から国替え、所替えを申し渡された時は、槍先にかけて一戦を交えよ。鍋島藩は譜代の者ばかりなので、命を惜しむ者は一人もいない。」と言い残している。


戦国武将データ 鍋島直茂

生誕 天文7年3月13日(1538年4月12日)

死没 元和4年6月3日(1618年7月24日)

直茂は秀吉に「天下を取るには知恵も勇気もあるが、大気が足りない」と評された。

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